ハーバードの日本人独身男子が自炊する理由


こちらに来てから、ハーバードロースクール、ハーバードビジネススクール及びケネディスクールのいわゆるプロフェッショナルスクールに在籍する人たち以外にも、ハーバード及びその周辺の大学でPhD(ないしMDやポスドク)をやっている日本人と知り合いになる多くの機会に恵まれた。東京で弁護士をやっていては知り合う機会のない、学問の各分野の先端を走っているトップクラスの研究者及びその卵たちと話すのは、それ自体、新鮮で刺激的な体験だ。いや、実際はだらだら飲んでいるだけなのだが(笑)。

そのなかでびっくりしたのが、PhDの独身男子がほぼ例外なく自炊することだ。ホームパーティーをすることがあれば、男子たちが厨房にたち、あるいは手料理を持ち寄るが、どれも素晴らしい出来映えで、日頃から料理をしていることが伺われる。これに対し、僕が東京で弁護士をしていたときは、男性アソシエイトが一人で食べるご飯は、昼も夜も外食又はコンビニのご飯が当たり前だったし、飲み会は、ほとんどの場合レストランやバーを予約していた。(もう一つ文化の違いを感じたのは、よほどの大人数でない限りレストランを予約する習慣がないことだ。ニューヨークでは必須のZagatOpenTableは、ケンブリッジではあまり使われない。)

こちらにきてからしばらくたつが、僕は、ご飯をたいて卵と納豆とキムチで毎朝ごはんを食べ、夜、たまにミックスベジタブルと魚又は肉を買って野菜炒めを作る(これらは料理の範疇に入るまい。)以外は、東京にいるときと同様、まるで料理をしない。


この違いはなぜなのか。同じくPhDの女の子(彼女の料理もまた素晴らしい)にこの点を指摘されたとき、まず忙しさの違いに原因を求めようとしたものの、弁護士はたしかに忙しかったが、PhDがおそらくLLMよりもずっと忙しい生活を送っていることからすると、それでは説明がつかない。では、ボストンのPhDの学生の間では性的役割分担に関し男女平等が徹底していて、僕が保守的かつ怠慢ということなのか? 何人かに話を聞いてみると、彼らは、東京ではぜんぜん自炊などしていなかったが、ボストンに来てからやむを得ず自炊を始めた、という人が多い。どういうことか? いろいろ考えてみたが、自炊するかしないかというbehaviorを決定するのは、主として環境要因であり、あとはせいぜい味覚の違いなのではないかと思う。つまり、一定レベル以上の味覚を持っている人にとって、一定レベルの外食を支える収入又は貯蓄があってかつ日本食にこだわりがないという条件を満たさない限り、ボストンにおいては、自炊するしか選択肢がないのだ。結局、行動を規定するのは、思想ではなく、環境にすぎないのだ。

  • 味覚(そもそもの食事に対するこだわりの有無):たとえば、ロースクールの学食(Hark)は最高だ、Harvard Squareにあるメキシカンはどれもおいしいとどうやら本気で思っている同級生がいる(彼は驚くべきことにこっちにきてから米を一回も買っていないのだ!)が、彼はどんな場所に住んでも外食だけで幸せに暮らせるだろう。あるいは三食シリアルフードでもいいという修行僧のような人もいると聞く。かれらは可哀想に人生の楽しみの半分をすでに失っているが、それ以外の半分で十分な幸せを勝ち取っているに違いない。
  • 近辺における満足のいく食事の入手可能性:一定レベル以上の味覚を有することを前提として、満足のいく食事がある程度のお金を出せば外食で入手可能か。ニューヨークはNippon Club、Restaurant Nipponはじめ、すばらしい日本食の店がたくさんあるうえ、各国料理を含めればおいしいレストランは星の数ほどある。他方、ボストンはこの条件をいちおう満たすが、日本食へのこだわりは捨てる必要がある。ドクターペッパーを愛飲し、生野菜をばりばり食べる僕の味覚はアメリカ人なので、ぜんぜん大丈夫である。ただ、ボストンは、東京・ニューヨークに比べると全体的に質がかなり低いことは否めず、味覚の劣化は避けられない(だいぶ味覚が衰えた気がする。)。さらに、プロビデンス等の地方都市にいくと、外食は一定の例外を除き絶望的なものとなる。
  • 満足のいく外食に要する費用に対する、その人の収入ないし貯蓄の額:店を選べば昼でも夜でも1,000円以下でバランスのよい食事が食べられる東京と違い、ボストンで手頃な料理となると、一定の例外を除き、ピザなどの栄養が偏ったファーストフードになってしまう。留学・研修中の弁護士であっても、貯蓄が底をついてくると、自炊せざるをえなくなってくるだろう。他方、自分の収入や貯蓄が不十分でも、親からの仕送りや将来キャッシュフローへの期待に頼って外食を続けることができる人もいるであろう。
  • 自炊を始める心理的抵抗:料理が習慣になると、おいしい料理が作れるようになり、また手間もかからなくなってくるし、逆に手間がかかっても楽しいと思えるようになる、とのことだ(あくまで伝聞)。しかし、始める当初は勝手がわからないのでやたら手間がかかるうえ大したものが作れず、がんばってつくったものが結果としてカフェテリアのごはんよりまずいかもしれない。そうすると、自炊を始めるかどうかは、外食というoutside optionと、自炊を始める心理的抵抗の強さとの比較によって決まるというべきだろう。そして、大学時代一人暮らしだったか実家だったか、実家が共働き(あるいは片親)だったか専業主婦だったか、料理のお手伝いをしていたか、性的役割分担についての考え方等いろいろな要因によりこの心理的抵抗の強さは決まるのだろうが、上記環境要因によって現実的に自炊しか選択肢がなければ、その強さにかかわらず自然と自炊することになるだろう。


このような環境要因によって自炊の習慣を身につけた男子は、結婚した後もすすんで料理をしつづけるのか。将来日本に帰るとして、日本に帰ってまったく異なる食環境に入った後どのような行動をとるのか。興味深いところだ。まあ、実は一番扱いやすいのはきっと、フローチャートの一番上で「外食でOK」に至ってしまう、味覚が欠如した男たちなんだろうけど。(そして僕は、料理もできないくせに舌だけはやたら肥えた、一番扱いづらいタイプだ。)