仕事に疲れた弁護士に、知識人の勇気とスタミナを(サイード「知識人とは何か」再読)

Kindle 5冊目、のはずがKindleでは売ってなかったのでリアルの本。NYU留学中・米国事務所研修中にふぉーりん・あとにーの憂鬱という素晴らしいブログ(僕は東京で仕事をしていたときリアルタイムで愛読していた。)を運営なさっていた弁護士47thさんが、最近になってはてなでブログを再開したきっかけになったという。僕も、高校生のときに読んで以来、10年以上ぶりに再読。

実を言うと、高校生のときは、知識人たるものそのくらいの覚悟、信念をもって当たり前じゃん、とか思ってあまり印象に残らなかった気がする。無知だった上に何の責任もコミットメントもなかったので、読書の世界(そこでは、ゴンブロヴィッチブレヒトソルジェニーツィンのように亡命することだって普通なのだった。)と、自分が実際に何かできるかを、分化できていなかったのだと思う。そこからしばらくの断絶があって、弁護士として実際に仕事を始めてみて、技術的な整理整頓や、人間関係も含めた案件のダイナミズム等を切り抜けていくスキルを覚えていくなかで、サーカズムやシニシズムをこえた、批判的な思考、ましてや発言、行動はほとんどできない状態だったと思う。そもそも、日々の稼働による疲労を言い訳に(実際にはいろいろできたはずなのだ。)、人生を楽しむことで精一杯で、自分の実務の専門分野以外で行われる知的な議論をフォローすることすらままならなかった、というべきだろう。

That this [being an critical, engaging intellectual] involves a steady realism, an almost athletic rational energy, and a complicated struggle to balance the problems of one's own selfhood against the demands of publishing and speaking out in the public sphere is what makes it an everlasting effort, constitutively unfinished and necessarily imperfect. Yet its invigorations and complexities, for me at least, make one the richer for it, even though it doesn't make one particularly popular.

ディールに埋もれていた日々から離れ、ハーバードロースクールにくると、授業やセミナーでつねに政策論(社会はどうあるべきか?)を考えさせられることと、多くの人との接触を通じて、5年ばかりの(しかし日本で最先端の)弁護士としての実務経験をもった日本人が、それを踏まえて(あるいは踏まえなくても)、これから先何ができるのか?考えさせられる。あらゆる分野に通じること、すべてを疑って議論することはもちろんできない。すべての知的分野に対する冷ややかな敬意を持ちつつ、自分にどういう行動が可能で、何が最適なのか。今度は、足を地につけて考えるときだ。

いずれにしても、47thさんのブログは心から応援したい。それにしても、N事務所は本当に人材の懐が広いなあ。

Representations of the Intellectual (The Reith Lectures, 1993)

Representations of the Intellectual (The Reith Lectures, 1993)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)